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新コース
  • 日帰り
  • 和歌山
  • 歴史を学ぶ旅
コース番号
5208

雑賀衆の二つの戦い

  • 鷺森別院(イメージ) 鷺森別院(イメージ)

「惣」体制が終わる時

鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めました。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、住居が耕地から分離して住宅同士が集合する村落(集村)が次第に形成されていきました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになりました。紀伊国北西部においても、「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍たちで構成された「雑賀衆」と呼ばれる集団が成立。高い軍事力を持った傭兵集団として活躍し、また紀ノ川河口付近を抑えることから海運や貿易も行いました。
 その雑賀衆は、「天下布武」を目指す織田信長の畿内進出により、これまでの自治権が消失するとの危機感から、信長と敵対します。天正5年(1577年)、信長は自ら率いる大軍をもって和泉国から紀伊に侵攻し、雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆と交戦しました(第一次紀州征伐)。この戦いにおいて雑賀衆は太田城に籠城し、ゲリラ戦によって織田軍を大いに苦しめ、最終的には和睦を結びました。天正8年(1580年)に本願寺の門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れ、これ以降、織田信長に従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立。信長亡き後は、親織田派が追い出されました。以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする信長の後継者・羽柴秀吉の動きに雑賀衆は一貫して反発。ついに天正13年(1585年)、秀吉の侵攻が開始されるのでした(第二次紀州征伐)。

ツアーの出発日と募集状況・お申込み

出発日 旅行代金
(お一人様:税込)
募集状況 受付状況
2020年7月17日(金) 12,800円 催行決定

ツアー詳細

旅行条件 最少催行人員15名/添乗員同行します。
貸切バス会社名 千里山バスまたは寝屋川バスまたは同等クラス
食事条件 昼食:1回

基本スケジュール

日数行程食事
1 大阪・梅田8時発=〇平井城址(第一次紀州征伐において雑賀孫一が籠城した城)…〇蓮乗寺(孫一が開いた「孫一道場」がはじまり)=〇中野城址(第一次紀州征伐において雑賀衆のひとり貴志氏が籠城した城址)=〇雑賀御坊(本願寺鷺森別院)(石山本願寺を退去した本願寺顕如を迎え入れた寺)=〇太田城水攻め堤防址(秀吉が太田城を水攻めにするため築いた堤防)=〇太田城址(第一次紀州征伐で落城しなかった名城。第二次紀州征伐でも堅固さを発揮した)=〇矢宮神社(八咫烏命<やたがらすのみこと>を祀っており、雑賀衆の守り神の役目を果たした)=〇弥勒寺山城址(御坊山と呼ばれ、鷺森別院が出来るまでは紀伊の一向宗の信仰の中心地だった)=梅田17時ごろ着
【行程中の記号】
=バス →航空機 —列車 〜船舶 …徒歩 ≠ロープウェー
◎入場観光 ○下車観光 △車窓観光

ツアーの出発日と募集状況・お申込み

出発日 旅行代金
(お一人様:税込)
募集状況 受付状況
2020年7月17日(金) 12,800円 催行決定

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