馬どもはぬしくが心得ておとさうには損ずまじいぞ
寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れましたが、その後、義仲の京統治は失敗し、頼朝が派遣した範頼、義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ。
この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いた。この平家を撃滅すべく、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて出陣。しかし、平家方の守りは固く、範頼率いる大手軍は苦戦を強いられていた。これを受け、義経軍は、一ノ谷口に狙いを定め、一ノ谷の裏手の断崖絶壁から坂を駆け下って攻める事を決断します(逆落し)。この事は、後に作成された平家物語の巻第九に次のように書かれております『馬どもはぬしくが心得ておとさうには損ずまじいぞ』。(馬どもはそれぞれ乗り手が注意して落とせばけがをするまいぞ)。これにより平家軍は敗北するのでした。義経が逆落としを行った場所は現在、鵯越とすると説と一ノ谷とする説の論争が続いております。今回のツアーでは、両説の現地に実際に訪れます。