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新コース
  • 日帰り
  • 福井
  • 歴史を学ぶ旅
コース番号
005223

「天狗党の乱」終焉の舞台(後編)

幕末の大事件 「天狗党の乱」終焉の舞台

 文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていませんでした。このため斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞を養子に迎えようとする一派と、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)を後継者と考える一派が対立。敬三郎派は、徒党を組んで江戸へ越訴しました。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示されます。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功しました。斉昭が藩主になると、擁立に関わった一派を重く用います。こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになりました。これに対して斉昭は「江戸では高慢な者を天狗と言うが、水戸では義気があり国家に忠誠心のある有志を天狗と言うのだ」と主張しました。

 その後、天狗党は後期水戸学の影響を色濃く受けて尊王攘夷を第一と考えるようになり、一方で時代は開国へと歩みだします。安政の大獄で、斉昭の実子である一橋慶喜を支持する一派や尊攘派への大弾圧が行われますが、桜田門外の変で大老の井伊直弼が殺害され局面は急展開。台頭してきた長州藩によって尊王の機運が高まりますが、八月十八日の政変で長州藩は京都から失脚。横浜港の開港・鎖港問題で幕府と対立していた朝廷は、長州藩の代わりに水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなりました。天狗党の幹部である藤田小四郎は、長州藩と連携した挙兵計画を構想。天狗党の首領である武田耕雲斎が慰留しますが、小四郎は元治元年3月27日(186452日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵します。

 彼らの当初の目標は、徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきることでした。周辺の各藩が動きだしたため断念しますが、軍勢は700人以上まで膨れ上がります。しかし、頼みの綱であった長州藩が内裏参内に失敗し薩摩・会津藩に敗北(禁門の変)。これを受けて武田耕雲斎を首領、田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、長州藩に代わって上洛し、禁裏御守衛総督となっていた一橋慶喜を通じて朝廷に尊皇攘夷の志を訴えることを決しました。天狗党は11月1日、京都を目指して大子(だいご)(茨城県大子町)を出発し、下野、上野、信濃、美濃へと主に中山道を通って約2カ月の間、進軍を続けました。鵜沼宿(岐阜県各務原市)付近まで到達しますが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ蠅帽子峠(岐阜県本巣市・福井県大野市)を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだのでした。

 今回のツアーでは2回に分けて天狗党の終焉の舞台を訪れます。

ツアーの出発日と募集状況・お申込み

出発日 旅行代金
(お一人様:税込)
募集状況 受付状況
2022年9月16日(金) 13,000円 募集中 お申込み受付中

ツアー詳細

旅行条件 最少催行人員15名/添乗員同行します。
貸切バス会社名 千里山バスまたは寝屋川バスまたは同等クラス
食事条件 昼食:1回

基本スケジュール

日数行程食事
1 大阪・梅田8時発=〇武田耕雲斎本陣址(新保陣屋)(12月11日に天狗党が本陣を置いた所。加賀藩と交渉し降伏することを決めた)=〇来迎寺(耕雲斎を始めとする浪士353名が幕府によって処刑された)…武田耕雲斎等の墓…松原神社(耕雲斎ら411柱の浪士を祀るために創建された神社)=◎敦賀市立博物館(天狗党に関する資料が常設展示されている)=梅田17時ごろ着
【行程中の記号】
=バス →航空機 —列車 〜船舶 …徒歩 ≠ロープウェー
◎入場観光 ○下車観光 △車窓観光

ツアーの出発日と募集状況・お申込み

出発日 旅行代金
(お一人様:税込)
募集状況 受付状況
2022年9月16日(金) 13,000円 募集中 お申込み受付中

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