毛利元就「飛躍の合戦」
明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と正室の福原氏との間に次男として誕生したのが毛利少輔次郎元就です。初陣の「有田中井手の戦い」では、安芸国旧守護の勢威回復を目指す武田元繁を少ない兵で打ち取り、天文9年(1540年)の「吉田郡山城の戦い」では尼子詮久(後の晴久)率いる3万の兵の撃退に成功。これは戦国大名として雄飛する第一歩となりましたが、大内氏との従属関係からは脱却できずにいました。そのような中、天文20年(1551年)に大内義隆が家臣である陶隆房(後の晴賢)の謀反により討ち取られます(大寧寺の変)。これを好機と見た毛利家は領土拡大に乗り出し、尼子方の江田氏が守っていた備後の旗返山城を落とし支配。毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた晴賢が、元就に支配権の返上を要求したため、両者の関係は悪化していくのでした。そのころ、石見の吉見正頼が晴賢に叛旗をひるがえします。吉見氏討伐に対して毛利家が出兵に難色を示すと、晴賢は直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣したのでした。この行為は、安芸国人領主の盟主である毛利家に対する越権行為であり、ここにいたり元就は、大内支配圏からの脱却を考え、晴賢と戦う道を選ぶのでした。