毎日山の旅日記

毎日新聞旅行

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北陸の山緑の夜叉ケ池、やぶ山の三周ケ岳

 緑の密度が濃い。登り始めてからほどなくして、そう感じた。草花から樹木まで無数の植物が呼吸を重ねている。その息遣いと、体温までが肌を通して伝わってくるようだ。福井県と岐阜県境に位置する夜叉ケ池(1099m)を目指した時のことだ。登山口は福井県南越前町の山間にある。林道の果ての行き止まりだ。樹齢400年の、樹高約32mというカツラの巨木が出迎えてくれた。登山口の脇には、明治から昭和にかけて活躍した小説家・泉鏡花の文学碑がたたずむ。

 

文学碑に見送られて歩く始めた登山者たち 文学碑に見送られて歩く始めた登山者たち
 北陸の山中に、ひっそりと水をたたえる夜叉ケ池を有名にしたのは、泉鏡花の同名の戯曲によるところが大きい。碑には「花は人の目を誘う、水は人の心を引く。君も夜叉ケ池を見に来たという」と作品の一文が掲げられている。そう、私も夜叉ケ池を見に来たのだ。
深い森の中を歩く 深い森の中を歩く
 この森がうっそうとしているのもうなずける。私がよく登る山は都市部に近い。関東の丹沢、関西の六甲など。いずれも人の手が入り、“つくられた”森と言ってもいいだろう。
 一方、夜叉ケ池とその周辺の山々は、手付かずの原生林が残っている。人の住処は遠く離れ、里山として利用されることもなかったと思われる。ブナやミズナラは葉を接するように枝を広げ、ナナカマド、シャクナゲ、ヤマボウシなどが密生している。ここに比べれば、都市部に近い山々は、スギ、ヒノキといった植林が目立ち、どこか整然としている。
池のほとりに立つ夜叉姫祀碑 池のほとりに立つ夜叉姫祀碑
 森の息吹を楽しみながら、2時間登りつめた。突如現れた木道を、足をすべらせないように丁寧に歩くと、間もなく緑の水をたたえた夜叉ケ池に出くわした。
 戯曲「夜叉ケ池」は、妖怪と人が織りなす幻想的な物語だ。池に住むとされる白雪姫は、「水色の地に紅(くれない)の焔(ほのお)を染めたる襲衣(したがさね)……黒髪長く、丈(たけ)に余る」と美しく描写される。だが、人間として生きていた時には、雨乞いのいけにえとされた悲しい過去を持つ。そして、妖怪となり池に身を潜めつつ、恋に身を焦がしている。
 その恋を成就させることと引き換えに、夜叉ケ池を氾濫させ、大洪水を起こし、かつて自分を死に追いやった村人たちを水没させる。
 池の水をあふれさせた後、姫は従者の姥(うば)に尋ねる。
 
 白雪 人間は?
 姥 皆、魚に。早や泳いでおります。田螺(たにし)、鰌(どじょう)も見えまする。
ギンリョウソウがひっそりと咲いていた ギンリョウソウがひっそりと咲いていた
 そして、妖怪たちの嘲笑が響く……なんとも恐ろしく、身につまされる物語だ。
 眼前に広がる夜叉ケ池は、静かな水面を風に揺らしているばかり。白波が立つこともなく、透明な水には緑の木々が映るのみだ。ほとりには、「夜叉姫祀碑」が池を見守るように建っている。物語のような大水害を起こさぬように、祈りをささげているようにも見える。
静かな夜叉ケ池 静かな夜叉ケ池
 ここから、岐阜県側の三周ケ岳(1292m)までの道のりは片道2時間あまり。地元の岳人から「ヤブ山三周」とあだ名されるように、竹やぶが続き、厳しいやぶこぎを強いられる。晴れていれば北アルプスまで見通せる展望の山だが、登頂した日は太平洋上に台風があり、その影響で雲に覆われて大絶景は得られなかった。残念だが、また来ることもあるだろう。
 
深い竹やぶを書き分けて進む 深い竹やぶを書き分けて進む
さらに、お土産がひとつ。やぶこぎには、マダニがつき物だ。葉にマダニが付着しており、人間の通過を待ち構えている。予防策は皮膚の露出を少なくすること。私もレインウェアを着用し、登山用の手袋をしていた。
 だが、どこから潜り込んだのか、左肩の皮膚にマダニが食いついていた。自宅に帰ってから気がついた。そして、どうしたわけかマダニは息絶えており、吸血されなかったようだ。そのせいなのか、腫れもほとんどなく、かゆみもなかったのは幸いだった。ただし、感染症の心配があるため、翌日に皮膚科で診察を受けたのは言うまでもない。
 無事下山したが、マダニを土産としてしまった。夜叉ケ池に住む姫からの、何ごとかの言付けだったのだろうか。2018年6月10日登頂。
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】

●アクセス●
 JR北陸本線今庄駅からタクシーもしくはマイカーで岩谷林道終点にある登山口へ。バスなど交通機関はない。今回の取材は、毎日新聞旅行の登山ツアーに同行した。登山ツアーを利用するのも手だ。岐阜県側にも登山道はある。
 
●引用文献●
 「夜叉ケ池・天守物語」(作・泉鏡花、岩波文庫)
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〜山記者の目〜プロフィール
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長

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