毎日山の旅日記

毎日新聞旅行

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北アルプス険路と憧れの剱岳

 漆黒の鎧をまとった剱岳(2999㍍)を間近に見たのは、2020年8月13日午後のことだ。室堂ターミナルを歩き始めた時は雨模様だったが、4時間後には雨も上がり、我々は山小屋・剱沢小屋の前に立っていた。剱岳は白雲をまとい、屹立していた。岩に岩を重ねた山肌の、どこに登山道があるのか。その巨躯を、身震いがする思いで見つめた。  私は元々高所恐怖症だ。とりわけ人工の構造物で高所にあるもの、例えば飛行機や高層マンション、観覧車などはできれば避けたいと思っている。一方、山登りに関する限り、高度への恐怖は克服した。岩稜登はんを目的とした三点確保技術の練習を、定期的に続けてきた成果かもしれない。昨年は、穂高連峰の大キレットから前穂高岳までを縦走した。  だが、剱岳ではうまくいくだろうか。圧倒的な高度に恐れおののいてしまえば、岩にしがみついたまま一歩も動けなくなる。岩にしがみつく自分を想像すると、「本当に登れるのか」と不安が渦巻く。登山道の事前研究は抜かりない。剱岳の稜線を思い浮かべ、「大丈夫」と言い聞かせて、早々と床に就いた。
快晴の剱岳 快晴の剱岳
 翌日は快晴となった。夜明け前の薄明りの中を出発し、別山(べっさん)尾根をたどった。往復6~7時間の長丁場であり、ほとんどが岩稜帯だ。主な鎖場は13カ所もある。  まず前鋭鋒のひとつである一服剱(2618㍍)を目指した。早速1番と2番の鎖場が現れた。鎖場にはステンレス製の番号札が打ち付けてある。傾斜は緩やかで、鎖に頼る必要はなかった。一服剱山頂に立つと、前剱(2813㍍)の威容が目に飛び込んできた。岩屑の白い斜面を登山者が登っていく。一目で”難敵”とわかった。大小の浮石が見え、山頂近くはかなりの急傾斜だ。  一服剱を下り、前剱に取りかかる。浮石を落とせば、後ろの登山者に大けがをさせかねない。足の置き場を慎重に見極めてそろりそろりと歩いた。今にも落ちてきそうな大岩の左側に潜り込み、3番の鎖に導かれて稜線に出た。4番の鎖を抜けると、前剱となった。しばらく進むと、ガレ場の下りがあり、その次には長さ4㍍ほど、幅約50㌢の鉄橋があった。もちろん手すりなどない。バランスを崩して落下すれば怪我では済まない。身体が左右にふられないように、両足をゆっくりと前後させて渡り切った。経験したことのない緊張感が走った。今度は右上手に5番の鎖が張られていた。鎖に取りつき、横に移動して岩峰をトラバースした。さらに鎖(6番)を頼りに下った。危険な場所が引きも切らずにやって来た。どれも慎重に乗り切ることができたが、緊張で頭がしびれた。しかし、この先には最難関の一つが待ち構えている。
前剱の鉄橋と鎖=打木達也氏撮影 前剱の鉄橋と鎖=打木達也氏撮影
 7、8番目の鎖を超えると、難所「カニのたてばい」に到達した(9番)。山の中でカニとはユーモラスなのだが笑ってはいられない。急峻な岩場を数十㍍も登る。岩に突き刺さった鉄杭に足を乗せ、岩角を両手でつかみ、身体を持ち上げた。両手両足で身体を安定させて、確実に登っていく。実は登りは得意なのだ。左右を見る余裕もある。良く晴れたせいで、遠くの山々も見通せた。凄まじい高度感だ。カニのたてばいの距離はガイド本によってまちまちだ。30㍍と記す本もあれば、50㍍と書く地図もある。だが、そんなことはここではどうでもいいことだ。安全地帯まで自分の身体を持ち上げること。それだけに集中した。数分後、たてばいを抜けた。仲間たちも次々と通過した。もう山頂はすぐそこだ。
カニのたてばい カニのたてばい
 急峻な岩場を慎重に登ると、人々の笑い声が聞こえてきた。山頂だ。そして、午前8時半ごろ、我々も頂きに立つことができた。そこには、大パノラマが広がっていた。今歩いてきた前剱はもちろんのこと、笠ヶ岳、三俣蓮華岳、水晶岳といった北アルプスの山々が連なっていた。遠くに南アルプスと富士山も見えた。冷涼な風に吹かれて、心も晴れやかだ。記念撮影の後、下りに取り掛かった。疲れはあったが、「ここからが本番!」と気合を入れ直した。
にぎわう山頂 にぎわう山頂
頂上直下には最大の難所、10番目の鎖場となる「カニのよこばい」が待ち受けていた。横に張られた鎖を握りながら左へと横移動していく。が、最初の一歩目の足を置くべきステップ(岩棚)は見えにくい場所にある。両手で鎖を持ち、腰をかがめて、ステップを凝視した。足元に赤いペンキで彩られたステップがちらりと見えた。右足をそろりと下した。靴先が岩棚にピタリと乗った。安定感があった。安定は、安心と心のゆとりにつながる。さらに左足を置いた。あとは鎖を慎重に持ち続け、カニのように横に移動した。もちろん足元には空間が広がるばかりだ。「手を放してはならない」と自分にはっぱをかけた。これが終わると、垂直の鉄はしごが待ち受けていた。10㍍以上はあるだろうか。一歩一歩確実に降下した。11番から13番の鎖もこなして、来た道を戻っていく。前剱の急斜面を今度は下りで通る。両足の疲労はピークで、体のバランスがとりにくくなっていた。が、転倒してよい場所ではない。無事に前剱を通過し、一服剱へ。ようやく安全圏に到達した。
カニのよこばい上部付近。遠くの雲間に槍ヶ岳が見える=打木達也氏撮影 カニのよこばい上部付近。遠くの雲間に槍ヶ岳が見える=打木達也氏撮影
 正午、剱沢小屋に戻った。我々の眼前には、出かける前といささかも変わらぬ剱岳がそびえていた。まさに岩の大城であり、「威風堂々」とした風格がある。富士山とはまた違った、すべての岳人があこがれる聖域であることがよく理解できた。  そして、痛感したのは練習の大切さと、仲間の助力である。三点確保の練習を続けてきてよかったと実感した。また、声を掛け合い、励まし合う仲間がいたからこそ険路を克服する勇気を持つことができた。我々を受け入れてくれた剱岳と、山の仲間に感謝する旅となった。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会公認登山ガイド・小野博宣】(2020年8月13~15日)
剱岳山頂からの富士山 剱岳山頂からの富士山
【剱岳に登るために】コラムを読んでいただければ、初心者には難しい山であることはお分かりいただけると思う。それでも「いつかはあこがれの山へ」と考える人は多いだろう。では、登るためにはどんな準備が必要だろうか。それは三点確保技術の習得と体力をつけることだ。  三点確保とは、岩場を登り下りする際の技術を指す。両手両足(つまり四点)で岩場にしっかりと立つ。移動する際には、手か足の一点のみを動かし、ほかの三点は動かさない。三点確保を常に維持することで、比較的安全に岩場を移動することができる。岩登りの講習会などでぜひ習得したい。体力をつけるのは、山登りでつけるのが王道だろう。月に二回以上は登山に出かけたい。
剱岳山頂から室堂方面を見る 剱岳山頂から室堂方面を見る
【室堂へ行くには】別山尾根から剱岳に登る際に、最寄りのターミナルとなるのが室堂だ。私たちは、登山バス「毎日あるぺん号」で東京から直行した。乗り換えが全くないので、夜間はぐっすり眠ることができた。なお、大阪、名古屋発のあるぺん号は今年(2020年)は新型コロナウイルスの感染拡大のため運休となった。
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〜山記者の目〜プロフィール
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長

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