毎日山の旅日記

毎日新聞旅行

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関東・栃木白雪の那須岳

 かつて登山家の田部井淳子さんをインタビューしたことがある。テーマはすっかり忘れてしまったが、初めての登山について語ってくれた。「小学校4年の時に、担任の先生に連れられて栃木県の茶臼岳(1915㍍)に登った」と話されたことを、あの人懐っこい笑顔とともに思い出す。

 この言葉が記憶に鮮明なのは、私の初登山も茶臼岳だったからだ。2007年夏、那須町在住の山岳写真家に誘(いざな)われて山頂に続く、岩だらけの登山道を歩いた。息が切れてとにかく苦しかった。「登山とはこんなにつらいものなのか」と思ったものだ。快晴無風の蒼天の下、頂(いただき)からの展望の雄大さ、美しさに心を奪われた。「また、あの風景を見たい」。そう思えたことが、山に登るようになった動機であり、原点なのだ。

2018年11月下旬、那須ロープウェイ山頂駅は強風にさらされ、登山道には雪煙が舞っていた。私たち一行は、山中の秘湯・三斗小屋温泉を目指して、寒風に一歩を踏み出した。風が体を揺らすが、厳重な防寒着のおかげで寒さは感じない。後ろにいる仲間を振り返った。みんな着実に歩みを進めている。

 当初は茶臼岳に登頂してから温泉に向かう予定だった。だが、過去には風による遭難事故が起きている危険地帯だ。登頂は高気圧に覆われる翌日と決めて、山裾(やますそ)を迂回して樹林帯を経由するコースを取った。茶臼岳の南側に回りこむと、風は不思議なほど収まった。数㌢の積雪の上を歩く。さらさらとしたパウダースノーが心地よい。

雪煙舞う中を三斗小屋温泉を目指して歩き始める(打木達也氏撮影) 雪煙舞う中を三斗小屋温泉を目指して歩き始める(打木達也氏撮影)

 那須の深い森に入ると、風も寒さもなくなった。アップダウンを繰り返し、次第に汗ばむ。衣服調整をしつつ、1時間半ほどで三斗小屋温泉・煙草屋旅館に到着した。山中のいで湯は古色蒼然とした佇(たたず)まいで私たちを迎えてくれた。2016年に旅館の支配人を取材したことがある。創業は江戸時代というが記録がなく、正確な年はわからないそうだ。山中の露天風呂には長い歴史が漂っている。荷物を降ろし、女性陣は露天風呂へ。風呂には壁がなく360度の展望を得られる。開放感は抜群だ。夕食の後、私も露天風呂に向かった。熱めの湯が肌に心地よい。だが、湯から一歩出ると冷気が突き刺さる。早く服を着ないといけないが、脱衣所の床は凍っている。すべらないように登山服をはおり宿へ引き上げた。

 消灯は午後9時。携帯電話も圏外で、静かな夜となった。午前4時に目を覚ますまで6時間以上眠り続けた。ストレスも疲れも吹き飛んだのは言うまでもない。

 

趣のある煙屋旅館。山中の温泉宿だ 趣のある煙屋旅館。山中の温泉宿だ

 温泉でゆでた温泉玉子の朝食をいただき、午前7時半に宿を後にした。昨日とは打って変わって雲ひとつない快晴となった。

温泉の源泉脇を通過する登山道は急傾斜が続く。じっくりと体を持ち上げた。霧氷の白さが、抜けるような青空にまぶしい。稜線上に飛び出ると、那須の山々が折り重なって眼前に迫ってくる。広大な風景に心が晴れ渡ってゆく。

 時折鋭く吹く冷たい風に身を縮めながら、三本槍岳(1916㍍)を目指した。どっしりとした姿をしたこの山は、福島・栃木の県境になっている。私はその頂を「歩いていく東北」と名づけている。三本槍岳とはちょっと風変わりな名前だろう。江戸時代に領地の境界を確認するため、会津藩、那須藩、黒羽藩の武士が山頂に集まった。この時それぞれが槍を持っており、それが山名の由来になったと聞いたことがある。わらじをはいた武士たちが重い槍を担いで斜面を登る姿を想像すると、どこかユーモラスな気もしてくる。

名物の露天風呂。遠くに尾瀬の熢ヶ岳が見えた 名物の露天風呂。遠くに尾瀬の熢ヶ岳が見えた

 山頂からの眺めは、絶景に絶景を重ねたような見事さだった。遠くに白くなった新潟や日光の峰々が見える。磐梯山が間近にあり、猪苗代湖の湖面もきらきら輝いていた。この空間を持って帰りたい衝動に駆られたが、心の奥に刻み込むことしかできない。大自然の名画を見るために、我々は歩いてきた。そして、登山の醍醐味はそこにある。「だから山登りはやめられない」。心底そう思えた瞬間だった。

三本槍ヶ岳山頂からの展望。写真ではわかりにくいが猪苗代湖が遠望できた(打木達也氏撮影) 三本槍ヶ岳山頂からの展望。写真ではわかりにくいが猪苗代湖が遠望できた(打木達也氏撮影)

 山頂を楽しんだ後は、平原と稜線を歩き、朝日岳(1896㍍)と茶臼岳を縦走した。朝日岳は天空に屹立(きつりつ)した岩峰であり、孤高の人を思わせる。今なお噴煙を吐き続ける茶臼岳山頂付近は草木ひとつ生えていない。荒涼とした世界は噴火のすさまじさを今に伝えている。

 荒々しい岩の山とたおやかな稜線、そして湧き出る温泉の源は火山であることは言うまでもない。那須岳を巡る旅は火山活動と隣り合わせであることに十分留意したい。一方、我々の地球が生きていることを実感する道行きでもある。私は那須の山中に宿をとるとすっかり安眠してしまう。母なる星の懐に抱かれたような、そんな感覚があるからだろうか。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】

木道を行くパーティー。奥に見えるとがった山は朝日岳 木道を行くパーティー。奥に見えるとがった山は朝日岳

●那須岳● 茶臼岳の別称とも言われる。名著「日本百名山」で深田久弥は「茶臼、朝日、三本槍を、所謂(いわゆる)那須岳と見なしていいだろう」と述べている。

●那須ロープウェイ● 山麓駅から茶臼岳9合目の山頂駅まではわずか4分間で行ける。冬季休業期間があり、ホームページ(HP)によると今シーズンは2019年3月19日までという。また、営業日の最終便が出てしまうと、山頂駅は無人となる。注意したいのは、最終便の出発時間の30分前に切符の発売が終了することだ。出発時間直前に駅に戻っても乗車はできない。険しい登山道を2~3時間かけて歩いて下山することになる。

 また、茶臼岳山頂までは約1時間で行ける。大きな岩や石が転がっており、サンダルやパンプスでは危険だ。運動靴と飲み水を持って登ろう。なお、ロープウェイのHPには茶臼岳登山に関するさまざまな情報が掲載されている。参考にしたい。

●引用・参考文献●

「日本百名山」(深田久弥著、新潮文庫)

那須岳ロープウェイホームページ(https://www.nasu-ropeway.jp/)

茶臼岳山頂。神社のほこらも凍る 茶臼岳山頂。神社のほこらも凍る

 

 

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〜山記者の目〜プロフィール
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを経て現在、関連会社「毎日企画サービス」顧問。
2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長

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