毎日山の旅日記

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四国大らかな剣山

 秋10月、四国の剣山(1955㍍)を再訪した。初登山は昨年6月だったが、雨にたたられ視界は得られなかった。その日以来、「晴れた日に剣山の山頂を踏みたい」と切望するようになった。麓の道の駅「貞光ゆうゆう館」の駐車場には、晴天時の剣山の写真が掲示されている。その素晴らしい山容に魅せられたからだ。徳島駅で関西在住の岳友と合流し、レンタカーでゆうゆう館へ。ここで地元のタクシーに乗り換え、登山口の見ノ越へ向かった。登山口へは山岳道路を1時間以上走るのだが、道幅は狭く車がすれ違えない場所もある。私の運転技術では心もとないのでタクシーをお願いすることになった。見ノ越の駐車場は徳島や関西ナンバーの乗用車で埋まっていた。紅葉の時期でもある。混んでいて当然だろう。
剣山山頂から見る次郎笈 剣山山頂から見る次郎笈
 登山の前に剣神社に立ち寄った。敷地内には、小説家・宮尾登美子さんの文学碑があった。剣神社と剣山を舞台にした小説「天涯の花」(集英社文庫)はドラマや舞台にもなった。身寄りのない女性の成長録であり、せつない恋の物語である。剣山に自生する高山植物キレンゲショウマを有名にしたのもこの作品だ。文学碑にはキレンゲショウマの写真と共に、「さわやかな月光の花は 凛として気高い」とあった。月光の花は一義的にはキレンゲショウマだが、主人公・珠子のことだろう。さらに、誇り高く生きるすべての女性へ贈られた言葉として読める。登山の前に、この佳品を読み、文学碑を訪れることをお勧めしたい。
剣山山頂。笹原が広がる 剣山山頂。笹原が広がる
 見ノ越からはリフトに乗った。15分の乗車で高度を350㍍ほどかせいだ。便利なものだ。西島駅の標高は1700㍍という。ここから稜線を歩く。傾斜のきつい場所もあるが、よく整備された道だ。ナナカマドは赤い実を付けていたが、紅葉はまだ始まっていなかった。源氏の追及を逃れた安徳天皇が刀をかけたという刀掛の松付近で呼吸を整え、30分ほどで山小屋「剣山頂上ヒュッテ」に到着した。荷物を置いて山頂に足を向けた。ヒュッテから山頂へはわずか10分の距離だ。
紅葉は始まったばかり。次郎笈は霧の中に。 紅葉は始まったばかり。次郎笈は霧の中に。
 数段の階段を登り切ると、目の前には広々とした空間が現れた。天空の草原だ。空が広く、無数のミヤマクマザザが風に揺れていた。遠くには山なみが幾重にも連なる。これほど広大な笹原の頂上も珍しいだろう。再興を夢見た平家の武者がここを馬場として使ったという伝説から、「平家の馬場」と名付けられている。さらに木道を歩き、一等三角点にたどり着いた。三角点は太いしめ縄で守られ、近くに立ち入ることも触れることも出来ない。さらに南西に目をやると、隣峰の次郎笈(じろうぎゅう、1930㍍)が見えた。草原の山頂から次郎笈までは、笹原の緑の道が続く。この独特の山岳景観を見ていると、鷹揚な気持ちになってくる。小さなことにこだわらず気宇壮大にいこうよ、と剣山に語りかけられている気がした。
剣山の一等三角点。しめ縄で守られている 剣山の一等三角点。しめ縄で守られている
 翌日は、朝から霧雨となった。雨具を身にまとい、次郎笈までの縦走に出かけた。剣山の山頂から鞍部(山と山の間の低地)へ下り、登り返す。風はなく寒さは感じないが、真っ白な霧の中を歩くのは何とも味気ない。どこを歩いているのかもわからず、目の前の登山道をたどった。次郎笈山頂で記念撮影をし、来た道を引き返した。その時だ。一陣の西風が巻き起こり、分厚い白雲を徐々に連れ去った。刻々と霧は晴れ、目の前には緑色に輝く剣山が全貌を現した。何という天祐だろうか。天然の動画に、仲間と私はしびれたようにその場を動けないでいた。映画を観ているかのよう……と思い、それを打ち消した。人の手による映画よりも素晴らしい! そして、私はこれを見るために、四国の天地を訪れたのだ。
姿を現した剣山 姿を現した剣山
 次第に青みが増していく大空のもと、下山の途についた。仲間たちは笑顔となった。山は不思議だ。人を大らかにし、微笑みをもたらす。私たちはその喜びを知っている。だから、山に登るのだ。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2020年10月3~4日)
剣山頂上ヒュッテの夕食。アマゴのから揚げがおいしい 剣山頂上ヒュッテの夕食。アマゴのから揚げがおいしい
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〜山記者の目〜プロフィール
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長

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