奈良時代を揺るがす大事件
長屋王は高市皇子の長男であり天武天皇の孫にあたります。母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。また、長屋王の祖母は蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)であり、自身の配偶者には同じく蘇我姪娘を祖母に持つ吉備内親王と、石川虫麻呂の娘の石川夫人、藤原不比等の娘の藤原長娥子がいた。これは、将来何らかの事情で皇位継承者が首皇子から他の皇統に移動した場合、蘇我系皇族腹、蘇我氏腹、藤原氏腹という考えうる3通りの選択肢を全て備えており、養老4年(720年)8月に藤原不比等亡くなり、大黒柱亡き後の藤原氏にとって脅威の存在であった。また同時に神亀元年(724年)2月に即位した聖武天皇の新政権にとってその発言力は無視できない存在であった。それを物語るように、神亀元年(724年)2月に聖武天皇が生母の藤原宮子に対して勅によって与えられた称号が詔によって撤回された事件【辛巳事件(しんしじけん)】においても、上奏を行い。説によっては、この件で藤原四兄弟との意見の相違こそが、長屋王の変の遠因になったとも言われている。さらに神亀4年(727年)潤9月、藤原不比等の娘・光明子が初めて男子を出産。1ヶ月後には、その子を皇太子としたが、翌年9月、皇太子は病没し、聖武天皇の別の夫人が男子を出産した。これを警戒した藤原四兄弟は、聖武天皇の夫人の中に序列をつけること、つまり光明子の「皇后」の格上げを目指すのです。そしてそれを実現する為に邪魔になるであろう長屋王の排斥に向けて動きます。神亀6年(729年)2月、奈良時代を揺るがす大事件である「長屋王の変」が起きるのでした。