織田氏に対抗した“伊賀惣国一揆”
天正伊賀の乱は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次としている。伊賀国は、大きな勢力が登場する事なく、戦国時代には伊賀の地侍層が在地領主権を守るために、一国的規模で団結した組織をつくっていました。彼らは、隣接する甲賀郡中惣と連携し、合同会議を国境において野寄合の形で開くこともあり、執行部として10人の奉行を選出するなど、甲賀郡中惣と類似する構造でした。組織化した要因は、大和宇陀郡の三人衆らの伊賀侵入に対する自衛から成立したと推測されています。この“伊賀惣国一揆”を治めていた伊賀国に対して、織田信長の次男で伊勢の領主であった北畠信雄は、信長の許しなく伊賀に侵入し、かつての北畠氏の城であった丸山城を拠点とすべく改修を始めました。すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決。ここにいたり、二次にわたる「天正伊賀の乱」が幕開けしました。