平城太上天皇の変(薬子の変)からの復活劇
810年(大同5年)に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。世にいう平城太上天皇の変(薬子の変)です。この政変で平城天皇の第一皇子であった阿保親王は、大宰権帥に左遷されました。弘仁15年(824年)平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によってようやく入京を許され、天長3年(826年)には子息の行平・業平等に在原朝臣姓が賜与され、臣籍降下させています。これがのちの在原氏の誕生です。平城太上天皇の変以降、苦しい立場にめげず阿保親王は、その才覚を発揮し、やがて朝廷内で認められていきました。性格は謙虚で、文武に秀で、和歌にも優れ、官位は三品であったが死後一品の品位を追贈されました。尚、阿保親王嫡孫が大江音人で、大江氏の子孫である毛利氏が江戸時代阿保親王の墓所の改修を行った。