「大化の改新」が招いた悲劇のストーリー
皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制に終止符を打ちました【乙巳の変】。同年6月14日、乙巳の変の直後に皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしました。しかしそれを受けた場合、皇位を狙ったクーデターと捉えられかねず、中大兄と鎌足の協議の結果、皇弟の軽皇子が即位し孝徳天皇となりました。中大兄王子は皇太子となり政権の中核を担いました。同年12月、都を飛鳥から摂津難波に移り、難波長柄豊碕宮としました。大化2年(646年)1月に改新の詔を出し、一般的にはこれが「大化の改新」の始まりとされています。しかし、孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮から飛鳥京へ移ると群臣もこれに従い、孝徳天皇は完全に孤立し、白雉5年10月10日(654年11月24日)に憤死する事件が起きました。これにより皇極天皇が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚しました。孝徳天皇の皇子であった有間皇子は、父の死後、政争の巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯(南紀白浜温泉)に赴ました。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝えました。その有間皇子に蘇我赤兄が近付きある企みを打ち明けました。