六角氏再起への道
六角氏と甲賀郡武士の繋がりは古く、文明11年(1479年)11月、第9代将軍・足利義尚による六角征伐の際に、本拠地である観音寺城を捨てて、甲賀郡山間部でのゲリラ戦を展開した【鈎の陣】。この時に、甲賀の地侍五十三家が六角氏に味方しました。永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を推戴して上洛しようとし、六角義賢・義治父子にもこの軍勢に加わるように言ってきたところ、六角義賢・義治父子はこれを拒否した。
これにより、信長は上洛戦を敢行するため六角領に攻め込んできたが、六角義賢・義治父子は三好三人衆の岩成友通らの援助を受けて徹底抗戦を図った。しかし、激戦の末に観音寺城の向かいにある箕作城が落城するや、六角義賢・義治父子は観音寺城を放棄した。義賢は甲賀郡の石部城に、義治は愛知郡の鯰江城にそれぞれ立て籠もり甲賀の地侍と連携した。甲賀の地侍は、伊賀の国一揆や、近江に侵攻した織田信長への対抗として、より大きな郡規模の組織として永禄年間頃に「甲賀郡中惣」が形成されたと考えられ、地域の紛争の調停機能を果たした。これは、権力をもった領主が地域全体を支配するのではなく、小領主が地域の案件を合議で決定することは全国的にも極めて珍しいことでした。甲賀郡中惣を主体とする六角氏は、本領復帰の為、後に「第一次信長包囲網」の一角として信長を苦しめていきます。