長年続いた江戸時代の鎖国の終焉。「日米和親条約」~「日米修好通商条約」へ
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン帝国が1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。これによりヨーロッパ諸国とアジア圏との貿易が終わり新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになりました。これを受けて「大航海時代」が突入しました。16世紀後半にはイギリスによるアメリカ大陸の植民地化。18世紀半ばから19世紀にかけて「産業革命」。1812年には、「米英戦争」と世界は目まぐるしく動いておりました。特に、インドや東南アジアに拠点もたないアメリカは出遅れており、1846年 - 1848年に起きた「米墨戦争」によってカリフォルニアを獲得したアメリカは、巨大市場である清との貿易開拓が国家目標でした。当時のアメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至るものでした。このため、津軽海峡に面した松前(実際に開港したのは箱館)に補給拠点をおくことが望まれました。また米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じました。これを受けて代将マシュー・ペリーは、1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を提出。そして海軍長官ケネディから1852年11月13日付けでペリーへ日本遠征の訓令。1852年11月24日、マシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた蒸気フリゲート「ミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し、一路アジアへと向かいました。1853年5月4日に上海で艦隊と合流し、旗艦を「サスケハナ」に移し出港し、日本を目指しました。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時に浦賀沖に現れ停泊。世にいう「黒船来航」です。