日本三大水攻めのひとつ
天正10年(1582年)3月15日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)はついに姫路城から毛利の勢力範囲の備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣。途中、亀山城(別名:沼城)において宇喜多の軍勢1万が合流し、総勢3万の軍勢で備中へ侵攻を開始しました。
一方、迎え討つ毛利方は、備前備中の国境に近い足守川に沿う形で備中高松城を中心に7つの城砦(備中境目七城)が築かれ東からの侵略に備えました。備中境目七城は北から見て宮地山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城。秀吉方は、これらの城を攻略していき、いよいよ高松城に迫りました。秀吉は高松城に力攻めをしますが失敗(和井元口の合戦)し、水攻めにシフトチャンジし、高松城を追い詰めていきました。それを見た、毛利方は、小早川隆景が2万、吉川元春、毛利輝元がそれぞれ一万、総勢4万で、高松城を救うべく出陣。一方、毛利の来軍をうけ秀吉も、織田信長に出馬要請をし、いよいよ織田と毛利の一大決戦が行われようとしました。
しかし結末は当時の人が予想しない結果に終わり、天正10年6月4日に、清水宗治が切腹し、戦はおわりました。
今回のツアーでは、足守川以外に鳴谷川から方面からの水攻めを試みた遺跡を見学し近年の備中高松城の水攻めにもスポットをあてて見学します。