士族の終焉
西郷隆盛は征韓論に敗れると参議を辞し、1873年(明治6年)10月に鹿児島へ帰郷したが、これに従って桐野利秋、篠原国幹、別府晋介ら鹿児島出身の官僚や軍人約600人も帰郷した。鹿児島では将来の一大事に備えて集まる場所がほしい、あるいは将来のために学校を設けて教育をしたいという要望があり、西郷の了承を得て1874年(明治7年)6月に鹿児島城厩跡に私学校が設立されたが、学校といっても銃隊学校と砲隊学校からなる士族向けの兵学校であった。一方、秩禄処分や廃刀令への士族の不満は大きく、1876年(明治9年)には熊本で神風連の乱、萩で萩の乱も起きていた。また不景気と豊作が重なって米の値段も下落していたため、各地で農民一揆が発生していた。1877年(明治10年)1月下旬、鹿児島での反政府的な動きを心配していた新政府側は、鹿児島の草牟田の弾薬庫から弾薬等を深夜に密かに搬出したが、この動きに反発した一部の私学校徒が施設を襲撃して1月29日夜から2月1日にかけて武器弾薬を奪取する事件が発生した。遊猟中の根占から帰った西郷は、私学校幹部が提案した率兵上京を承認し、2月15日に西郷隆盛らの本隊(1・2番隊)総勢1万3千人が鹿児島を出発しました。